Tーマスは、今ではプロのバイオリニストにレッスンを受けている。
週1回の割で通い、その謝礼は月額200ポンド(3万8000円)という。
実に年間50万円近いお金をバイオリンに費やしていることになる。
趣味につぎこむには大きな額だ。
「アマチュアといってもメンバーは皆、学生の頃から音楽をやってきた連中だ。
下手な演奏をして、彼らに迷惑をかけるわけにはいかない。
私だけが個人の楽しみで弾くのではない。
皆とすばらしいハーモニーを創るのだ。
そのためには腕を磨かなくては。
高い月謝は、人生を楽しむための投資だよ」自分が腕をあげることでオーケストラの演奏のレベルもあがる。
その喜びのためにTーマスはレッスンを続けている。
考えて見ると、私の同僚に何らかの楽器をこなす人は少なくない。
何の楽器も弾けない私は肩身が狭い。
このほかにも好きなジャズのレコード収集にこれまで6万ポンド(1140万円)つぎ込んだ男もいれば、趣味の操縦のために4万ポンド(760万円)かけて中古の軽飛行機を買った男もいる。
どれも趣味ではあるが、中途半端な打ち込み方ではない。
シティマンは、朝早くからよく働くが、決して仕事だけが生きがいという人たちではない。
仕事も家庭も健康も趣味も、自己実現のために大切なものだと思っている。
だから、金も惜しまない。
自分自身への投資である。
生活の基盤である収入にはね返って来るという狭い意味ではなく、仕事も含めて自分の人生を豊かにするために必要な投資なのである。
投資といえばふつうは不動産とか債券とかを思い浮かべる。
もちろん、金融界にいる以上、彼らが資産運用の知識と情報は人一倍持っているのは当然である。
自らの資金運用にも、彼らが十分頭を使っていることはこれまでも書いた。
シティで13年間過ごしてきて私が気づいたのは、彼らは何よりも自分自身を高めるものや、自分自身の人生を豊かにするものに、惜しみなく金を使うということだ。
地味で目立たないが、自分を磨くことに投資している。
彼らは大人である。
この章の「人知れず自分を磨く」に登場したBもそのよい例である。
ひるがえって我が身のことを思うと、やや情けない気持ちになる。
健康管理もきちんとしていないし、人に話せるほどの趣味はない。
夜はよくカラオケバーに飲みに行く。
ただ、私は歌人兼エッセイストとして活動するかたわら、世界各地で生活している日本人の作品を紹介するため、雑誌を発行している。
「私は歌人だ。
英語でいえば○○だ」と同僚に言うと、皆、驚いて尊敬のまなざしで私を見る。
Mつまり詩人は、日本でこそ粗末に扱われるが、欧米では大変尊敬される存在なのだ。
私がK短歌賞を受賞した時など、イギリス人の同僚は喜んでくれ、私に「○○(タンカ.チャンピオン)のあだ名をつけてくれた。
ところで私は、Hが勧めてくれたジムにまだ行っていない。
「明日は行こう、明日は行こう」と思いながら1日延ばしにしている。
どうも億劫だ。
それなのに相変わらず大量に酒を飲んだり、朝の四時に起きて原稿を書いたりしているものだから、血圧は一向に下がらない。
このように自己コントロールの出来ないシティマンは失格なのかも知れない。
「あなた、私が紹介したジムにまだ行ってないの?脳溢血で倒れても知らないわよ」会社ではHが、顔を合わせるたびにそう言って私を脅かすのである。
今や「カラオケ」は立派な国際語である。
英語の会話の中で使っても通用する。
Oクスフォードの辞書にも載っている。
街のパブには、「○○(金曜日の夜はカラオケをやります)と書かれた客寄せの幕が出ている。
イギリス人は、「カラオケ」という言葉が日本語だとは多分、知らないだろう。
当然、「カラのオーケストラ」の略語であることも知らない。
歌唱用のバックグラウンド.ミュージックであることは、しっかりと知っているのである。
以前、クリスマスの時期に勤務先でカラオケ大会を開いたことがある。
従来は、一流ホテルかレストランを借りて、大規模なパーティを開いていたのだが、だんだん予算がきびしくなって来たので、会社は窮余の一策として、近くのパブを借り切り、目玉としてカラオケコンテストを開催することにしたのだ。
審査委員を決めておき、その採点に基づき、上位入賞者には賞品を出すことになった。
カラオケ大会の参加者は、各部署から選ばれた代表たちである。
実は、私も調査部を代表する選手としてマイクを握った。
その時、日英のカラオケの決定的な違いに気がついた。
日本では、カラオケといえば、デュエットでもない限り、1人がマイクを持って唄うのが普通だが、イギリスではそうではないのだ。
確かに、1人がマイクを握るのだが、ほとんどの場合、聞いている人たちも一緒に合唱する。
ここが決定的に日本と違うところだ。
話は少し脇道にそれるが、日本の短歌の世界に、「歌壇のカラオケ状況」という言葉がある。
歌人でW大学教授のS.Y氏が最初にこの表現を使った。
現在の歌人たちが作品を書き、発表することには熱心だが、他人の作品を読むことにはあまり熱心でないことを皮肉ったものだ。
つまり、日本のカラオケバーでは、自分が唄うことには一生懸命だが、ほかの人が唄っている時にはあまり耳を傾けないことを、歌壇の現状に当てはめて表現したものである。
歌人のはしくれである私は、S氏のこの表現を、まことに的を射たものと思っている。
だが、日本のカラオケのことであって、イギリスのカラオケのことではない。
クリスマスのカラオケ大会で私が選んだ歌は、F.Sの「MyWay」であった。
日本人が好んで唄ういわば英語の歌の定番だ。
私の番になって、皆の前に立ち、おもむろに私が歌い始めると、果たして、全てのイギリス人社員が一斉にこの歌を合唱し始めた。
スタンダードナンバーだから、皆歌詞を知っている。
マイクを握っているのは私だが、私の声はかき消されて聞こえない。
これではコンテストにはならない。
イギリスのカラオケだ。
ついでに書くと、このカラオケコンテストで私は1位になった。
大合唱に喧騒、という中で、私の歌声が審査員の耳にまともに届いたわけはない。
つまり、皆で気持ちよく合唱できる歌を選んだ功(?)が認められて1位になったとしか思えない。
この国の人たちは、カラオケは個人で楽しむものではないという共通の考えを持っているようだ。
彼らがサッカーを個人でひっそりと見るよりも、大勢でビールを飲み、わいわい騒ぎながら見るのが正統な楽しみ方だと考えていることにも、似通っている。
サッカー同様、カラオケも1人で楽しむものではない。
大勢で一緒に楽しむ、いわば楽しみを共有する場と考えているようだ。
だから、1人が唄い出せば、それに合わせて大勢で合唱する。
イギリスは個人主義の国だが、一方で、彼らが友人を大事にし、社交的であるということは、彼らがよく、友人を招待し、ホームパーティを開くことでも分かる。
彼らは、自分の個人的な生活の部分と、オープンな社交の部分をしっかりと区別して、使い分ける。
カラオケは後者に属する。
ロンドンの繁華街、ソーホーにある日本人向けのカラオケボックスにはイギリス人も来る。
私が、気持ちよくJ.Dの「TakemeHOme,COuntryROadS」などを唄っていると、聞きつけたイギリス人の客が、隣の部屋からやって来る。
私に合わせて、この歌を唄い出すのだ。
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